再生への備忘録33

昨日は玉川大学のミツバチ科学研究室を訪問して、養蜂場や研究室を見学させてもらいました。キャンパスがある豊かな里山の一角に作られた養蜂場は大学の研究機関だけあって、様々な工夫がされており、とても勉強になった次第です。
ところで、玉川大学に限らず、大学というのは基礎研究をする場であり、そこで学術的に研究された知見は、我々一次生産者や民間企業が現場で応用して初めて、研究が生かされます。
しかしながら、現実的には、基礎研究が先行して、応用研究に発展するというよりはむしろ、はじめに現実の問題解決という目的がまずあって、そこから基礎研究が始まり、その知見のフィードバックが、さらに応用研究を発展させてゆくという、現場と大学との相互作用が、業界の発展のための推進力を生み出してゆく気がします。
秋晴れの昨日は、玉川大学の学園祭と重なり、学生さん達の若いエネルギーを浴びて、リフレッシュできました。
また明日から新しい気持ちで、冬越しの準備に専念したいと思います。

再生への備忘録32

今日は、造園家でランドスケープデザイナーの山本紀久先生のワークショップに僭越ながら参加してきました。
以前の備忘録でも書いた通り、養蜂家の仕事は環境作りで、植樹や剪定の基本的な技術や、自然の森作りや里山活動の基本を知らないと自分のビジョンが具現化しません。
午前中は、まずモミジやトサミズキ、常緑のセコイアを使って、透かし剪定や樹形再生について実践的に学び、自然樹形に相似した樹形になるような剪定や里山環境の保全に焦点を当てた維持管理の仕方を学びました。
後半は、森の中に入って、森づくりの基本となる刈り出しをしながら、バイオネストを作りました。バイオネストというのは、剪定枝や落ち葉などで作る「生き物の巣」で、伐採した木々の処理と資源循環になるだけでなく、野ウサギや昆虫などの住処となって、森に生物多様性を生み出します。
最後は株立のウバメガシの株元を透かし、風景に奥行き感を出す技術を体感して、ワークショップが終了しました。
山本先生のワークショップは、自然環境や生き物に対しての愛が溢れていて、1つ1つの技術に深い意味があり、とても勉強になりました。

再生への備忘録31

蜂場の周辺を散歩していたら、石蕗(ツワブキ)の花が咲いていました。
石蕗は、キク科の宿根草で、日陰に鮮やかな黄色の花を毎年咲かせるので、庭木の株元に植えたり、グランドカバーにすると、日陰の庭がパッと明るくなります。思わず花の匂いを嗅いだところ、とてもよい香りがしました。
匂いに色があるとすれば、石蕗の花は、まさしく「黄色」の香りです。
ところで、光沢のある丸い石蕗の葉を見る度に、私は自分の母親を思い出します。子供の頃、指に棘が刺さると、母が何処からか石蕗の葉を取ってきて、それを棘が刺さった指に巻いてくれました。どういう理屈かわかりませんが、翌日には棘はすっかり指から抜けていました。
ちなみに石蕗はミツバチにとっても魅力的な花。積極的に増やしたい山野草の1つです^_^

再生への備忘録30

「与えるものが、与えられる」という原理原則については、以前の備忘録で書きましたが、これは、50歳を目前としたいま、もっとも重要なテーマになっています。「与えるとは何か」という事です。与えるとは、「与えない事をしない」という意味なのか、あるいは、「奪わない」という事なのか、自分の中で、そこをしっかりと定義できなければ、行動に結びつく事は永遠にありません。
そんな事を毎日考えていたら、黒柳徹子さんの「与える事は、奪う事に繋がる」という言葉に出会いました。文脈通りに読むと矛盾しているようにも見えますが、一瞬にして腑に落ちました。
子育てにも言える事ですが、親は情操教育のつもりで、良質な玩具を与えたとしても、それは子供自らがおもちゃを創って遊ぶ独創性を奪う事になり、また、子供に数学の解き方や社会の仕組みを教える事は、子供自らが自らの力で学ぶ機会を奪う事になります。また、薬を与えたり、転んだ時に手を差し出す事が、生きる力を奪う場合もあります。誰かに何かを与える時は、それが誰かから「本質的な何か」を奪っていないか、よく考えなければなりません。
ところで、これを養蜂に置き変えてみると真実が見えてきます。巣箱の中に何も与えず、巣箱からは何も奪わない。養蜂家はただ、環境作りに徹するという、一見極端とも言える行動は、養蜂家に何を与えてくれるのでしょうか。ハチミツやお金などの実利的な何かなのか、貢献感や神の祝福といった、抽象的な何かなのか。
それは改めて考察してゆきたいと思います。

再生への備忘録29

ミツバチは、巣箱を中心として半径約2キロの範囲を生活圏としています。養蜂家のすべき事は、その圏内を緑化し、一年を通じて蜜源や花粉源となる草花や樹木を増やしてゆくことに尽きます。環境依存型の養蜂から、環境創出型の養蜂にシフトしなければなりません。
蜂場から直線距離にして数百メートルの畑の隅っこにコスモスが咲いていました。コスモスは、秋の大切な蜜源であり、花粉源でもあります。
日没前だというのに、我が社の従業員達は、花から花へとせわしなく飛びまわっていました。そろそろ長い冬がやってきます。

再生への備忘録28

仕事の帰り道。巣箱を積んだトラックを走らせていると、県道沿いに一列に植えられているクロガネモチが目に入りました。クロガネモチは、養蜂家なら誰でも知っている優良蜜源樹木で、ハチミツは風味か良く、見つけると嬉しくなります。特に、秋が深まるこの時期に付く赤い実は可愛らしくて、すぐに車にスマホを取りに行き、撮影したのが下の写真です。

殺風景な県道に、色を添えてくれている赤い実は、勝手に出来たわけではありません。花とミツバチたちの共同作業の結晶です。

そういえば、私に養蜂を教えてくれた師匠のご自宅には、見事なクロガネモチが植えられていて、いつも綺麗に剪定されていました。いつか私の家にもクロガネモチの苗木を植えたいと思います^_^

再生への備忘録27

秋も深まり、冬の足音が聞こえはじめると、何故か決まって話をしたくなるテーマが、この時期にミツバチ達の貴重な蜜源となっている「セイタカアワダチソウ」の話です。セイタカアワダチソウというのは、環境庁が「侵略性特定外来種」に指定し、駆除の対象としている、北米産の雑草です。学識者からは、「日本の里山の生態系を破壊し、在来植物を駆逐している」と悪者扱いされ、一般の人からは、「花粉症の原因となる」として、グリホサートなどの除草剤をかけられているセイタカアワダチソウですが、それでも、毎年、秋に力強い黄色の花を咲かせ、ミツバチはその蜜や花粉を蓄えて、長い冬に備えます。
それを考えた時、私は「侵略性」という言葉に非常に大きな違和感を感じてしまいます。セイタカアワダチソウは必要があってそこに存在していると感じられるからです。実際にきちんと観察していればわかる事ですが、セイタカアワダチソウの花が咲き誇っている場所は、耕作放棄地や道路の中央分離帯、砂取場など、人間による大規模な介入があった土地であって、伝統的に適正に管理された農地や里山には一本も生えていません。一歩踏み込んで言うならば、長年の施肥によって、リン濃度が高くなった農地や、pHが高くなり、在来植物が育たない土地に、限定的に根を張ります。セイタカアワダチソウは環境を破壊しているのではなく、また、在来植物の生息域を侵略してのでもなく、「あるべきところに花を咲かせている」だけな
のです。ところで、「雑草という名の草はない」という昭和天皇の言葉がありますが、この言葉が好きです。すべてのものには名前があり、あるべきところに存在する。ただそれだけの事だという実感は、年を重ねるごとに深いものになっています。

再生への備忘録26

10月も残り僅かとなり、いよいよ越冬準備の時期となりました。弱群化し、自力で越冬できそうにないと判断される群は合同したり、群勢にバラツキがらある場合は群を均一化するなどして、越冬に備えます。ミツバチの合同とはつまり、人間社会に於けるM&Aと同じく、ある種の相乗効果を期待して行うわけですが、単にミツバチの頭数を揃えるだけだったり、働き蜂の雇用を確保する目的の為だけの合同は、期待される相乗効果が生まれないばかりか、いたずらに蜂群を失う事になり、これはM&Aが長期的に見て社会にとってマイナスに働く現象と本質的には同じで、合同するか否かの判断は、自然科学と社会科学の双方から論じる必要があると思っています。

ところで、相乗効果はなぜ生まれるのでしょうか。自分の夢や目標は、1人で達成できるものではなく、同じ志しを持った複数の仲間がいて、はじめて実現できると気付いたときから、「相乗効果」という不思議は私の人生の大きなテーマとなりました。

再生への備忘録24

偶然か必然か、被災する2週間前から、寝る前に旧約聖書を読むのが習慣化していて、いま「創世記」を読んでいます。創世記のポイントはやはり、エバが蛇に誘惑され、善悪の知恵の果実を食べ、原罪を負ってしまう場面ですが、「善と悪」という二元論的な思考を人間が持つ事は罪である、というキリスト教的な世界観がまず前提としてあるところが面白いです。善と悪という尺度を持つ事は人を裁く事になり、結果的に争いや対立を生むわけなので、罪と言えば罪かもしれません。もっと言えば、こうやって、聖書に書かれている事に解釈を加え、あれこれ論じる事が罪なのかもしれません。解釈するという事は「信じていない」という事だからです。
ところで、いま私たちは、大と小から始まって、善と悪、幸せと不幸、裕福と貧乏など、全てが二元論で説明される世界に生きていますが、これは、蛇の誘惑に乗せられて、神を信じる事が出来なくなったからなのでしょうか。
そもそもなぜ、二元論的な思考が人間に宿っているのかが逆に不思議です。

アップル社のリンゴのデザインはデザインとして非常に完成されていますが、どこか禁断のオーラが漂っていると感じるのは私だけでしょうか。
スティーブ・ジョブスは、アメリカ人っぽいジョークを交えて否定していますが、「禅の影響を受けたプロテスタント(?)」のジョブスならではのデザインだと解釈する方がしっくりきます。
しかし、あらゆる誘惑に陥る事なく、真理に近づきたいと思っても、その道は口で言うほど容易ではありません。誘惑のその先に真理があるかもしれないからです^_^

再生への備忘録23

ルドルフシュタイナーが、1923年に養蜂家に向けて行った講演をまとめた本「BEES」を読み解いています。この本に限らず、シュタイナーの本はとても難解で、一回や二回読んでも理解できないのですが、そもそも、この世の中に、簡単に理解できる事は何もなく、理解するよりむしろ考える方が大事なのではないかと思いながら、一文一文に時間を割いて読んでいます。
シュタイナーは、いまから90年以上も前に「もし、工業的な養蜂が続いたならば、ミツバチの消滅が始まるだろう」と預言しています。1851年にラングストロースが枠式巣箱を発明し、その数年後にフルシュカが遠心分離器を発明した事で、近代養蜂は飛躍的に発展しましたが、人間の、蜂社会に対する過干渉と、養蜂業において慣習的に行なわれていることの多くが、ミツバチと人間との調和を壊してしまっているのは事実です。
産業革命以降、脈々と続いてきた、物質的豊かさを求める時代から、精神的な充足感を求める時代に急速に転換しつつある現代に於いて、ミツバチと共生できる養蜂はどこにあるのか、自分なりに考えてみたいと思います。