再生への備忘録30

「与えるものが、与えられる」という原理原則については、以前の備忘録で書きましたが、これは、50歳を目前としたいま、もっとも重要なテーマになっています。「与えるとは何か」という事です。与えるとは、「与えない事をしない」という意味なのか、あるいは、「奪わない」という事なのか、自分の中で、そこをしっかりと定義できなければ、行動に結びつく事は永遠にありません。
そんな事を毎日考えていたら、黒柳徹子さんの「与える事は、奪う事に繋がる」という言葉に出会いました。文脈通りに読むと矛盾しているようにも見えますが、一瞬にして腑に落ちました。
子育てにも言える事ですが、親は情操教育のつもりで、良質な玩具を与えたとしても、それは子供自らがおもちゃを創って遊ぶ独創性を奪う事になり、また、子供に数学の解き方や社会の仕組みを教える事は、子供自らが自らの力で学ぶ機会を奪う事になります。また、薬を与えたり、転んだ時に手を差し出す事が、生きる力を奪う場合もあります。誰かに何かを与える時は、それが誰かから「本質的な何か」を奪っていないか、よく考えなければなりません。
ところで、これを養蜂に置き変えてみると真実が見えてきます。巣箱の中に何も与えず、巣箱からは何も奪わない。養蜂家はただ、環境作りに徹するという、一見極端とも言える行動は、養蜂家に何を与えてくれるのでしょうか。ハチミツやお金などの実利的な何かなのか、貢献感や神の祝福といった、抽象的な何かなのか。
それは改めて考察してゆきたいと思います。

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